デッサン日記

             9月21日(日)    峠越え(二)  壁


 峠を越えて次なる次元に向かわなければならないのは判っている。
今の私の前に立ちはだかる峠とは何だろう・・・・・・。
技術的にも表現するということにおいても、今の私の念描写ではとても世の中に問うことはできないということは良くわかっている。
そのことより先に今の私の前に立ちはだかる峠、いや壁といった方が良いくらいだが・・・・、
は一体なんだろう。

二三日まえの新聞にゴーギャンのことが書かれてあった。
40歳にして証券会社を辞め、画家となったゴーギャンは、ゴッホの耳を切り、また晩年は未開のタヒチ島近くの南海の島に居を移し、失いかけた情熱を再燃させ素晴らしい作品を残した。
 「ぜんぜん文明化されていない環境と、まったき孤独が、死の間際にいたり、私の内部で、最後の熱情のひらめきを復活させるのです。そしてその熱情こそ、私の想像力を、今いちど燃やし、私の才能を、さいごの出口へと導いてくれるものです」
友人にあてた手紙に、タヒチからマルキーズ諸島ヒバオア島に着いた時の率直な驚きを語っているのだが。
この天才ゴーギャンにしても、自分の前に立ちはだかる、壁、峠を乗り越える手段として、外的要因を最後の手段として用いた。

私などが山へ行ったり森に入るのも、その壁を越えるための何かきっかけになるかもしれないという期待があるからですが・・・・。
これだけ文明?が進んだところにいると、飢餓とか闘争心とか、本能をむき出しでの,がむしゃらな自己探求心は薄れて行くのかもしれない。・・・・・と外的要因を改善させねばならないと思ったりもしていました。
 
しかし、ここ数日、自分の壁、峠とは何だろう・・・・と考えていましたが・・・・、外的要因を考えれば考えるほど、環境の悪さとか、贅沢、怠慢によるハングリー精神の欠如とか、・・・・、
何だろうと考えていてふと思い当たったこと、一番の障壁は、『自分の弱い心』ではないかと気が付くに至りました。
一番の壁、障害は『自分の弱い心』、『意志薄弱な心』・・・・・越えるべきは己の心ではないかと気づくに至りました。
自分の能力がないのは他人や環境など外的要因からではなく、自分自身の中にある弱い心に負けているからであると・・・・。

自らを越える、・・・・私が若き日に傾向した、ニーチェの遊行の哲学や実存などにより、己のありのままの心に負けるのも良しとしてきた傾向もある。
いつしか己の弱い心を克服することを忘れてしまっている。
越えるべきは己の心である、死ぬまで闘い続けるのかもしれませんが。


                 9月11日(木)    峠越え(一)

  久しぶりに、長い夢を見た・・・・。いろんな人が集まってきた、それぞれが旅をしながら、仲間がある場所に集結している・・・・。
そんな場面で目が覚めたが、目が覚めてから、それは皆が集まり協力しながら、峠を越える準備をしているのだということがわかった。
 私には越えなければならない峠がある・・・・。

(今朝の朝日新聞の天声人語に書かれていた、ドイツ生まれのユダヤ系米国人サムエル・ウルマン(1840〜1924)の詩「青春」から)
  「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」
天声人語は、9月11日のあのテロで「旅立った」人たちに向けて書かれた久しぶりの名文でしたが・・・・。

人は肉体上の危機や「老い」に直面した時に、「人生」いや自分の「一生」に思い巡らす。
私にはまだ「老い」たという実感はないが、この詩にもあるとおり理想を失っては「老いた人」同然である。
私には越えなければならない峠がある・・・・。
今朝観た夢は、いろんな心の中の仲間や友人が、続々と集まり、黙々と峠を越える準備をしてくれていたのだ。越える時だ・・・・・。負けているわけにはいかない・・・・。挫折しているときではない。


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